かたちづくり

つれづれに、だらだらと、おきらくに

不便のデザイン

ふと突然、「不便さ」こそデザインされるべきだ、などという思考に頭が支配される。そんな今日の昼下がり。

紙の本は不便だ。検索できない。ハイパーリンクもない。でも、だからこそ目の前の文章に集中できる。活字の世界に入り込むことが出来る。小説に没頭することが出来る。

心をシングルタスクにすることができる。

電子書籍のデザインはどうあるべきか。問題は紙のような物理的な制約がないことだ。どこまでも機能が追加できてしまう。どこまでも便利を追求できてしまう。しかし、それは良いデザインといえるのか。
検索機能をつければ、その検索機能は画面の面積を占めるだけではない。読者の心にも入り込む。「検索する」という選択肢が入り込む。もちろんそれは便利だ。だが時として、集中の邪魔となる。読書体験の質を下げる。

温泉が好きだ。都会の喧騒を離れ、お金を使ってわざわざ不便な田舎の温泉宿まで足を運ぶ。不便だからこそ、いいのだ。以前行った温泉宿はお二人様限定で、部屋にはテレビも時計もなかった。あの外界からシャットアウトされた感じは最高に贅沢だった。(また行きたいけど、もう子供がいるので無理・・・)

便利は安売りされている。便利は安く手に入る時代になった。でも多分「デザインされた不便」は安くならないんじゃないか。
コンセプトがないと「不便」は作れないんだと思う。コンセプトがないと、どんどん便利になっちゃうんだと思う。今はそうやって便利が世の中に溢れて、便利が供給過剰になって、便利が大安売りになっているんだと思う。

マクドナルドがWi-Fi接続を提供するのと反対に、高級レストランは電波をシャットアウトしたら面白いんじゃないか。どこでもメールが読めちゃう時代だからこそ、電波から隔絶された空間というのは希少価値を持ちうるような気がするのだけれど。